「平成が終わる」なんて騒いでる人ばかりだけれど、だからと言ってすぐに何かが変わるわけじゃない。
今日も雨が降っていた。


ひとり取り残された感覚に陥ったまま退屈して憂鬱になって、それでも湧いて出てくる食欲にうんざりしながら食事する。
恋をして、抱き合って、ギターを弾いてうたを歌う。
1日の終わりには詩をかいて、眠くなったら眠る。
起きたら朝が来てしまうので、バイトに向かう。
生活の為の労働と、最低限の人付き合いと、人生の為の音楽を繰り返す。
何も変わらないようだけど、歳もとるし、思想も、人間関係も、街も、変わっていく。
そんな中でも生活の為の労働と、最低限の人付き合いと、人生の為の音楽を繰り返す。

誰かのための人生じゃないし、焦燥感は常にある。
それでもそこにはいつでも人が居て、わたしの場合はいつでも音楽がある。それはきっと与えられる愛であっていつの時代でも変わらない、よね?

自分以外の誰のためでもない人生の中で作った音楽が小さな感情や気づきを与えられていたら。決して多くはない好きな人に愛を与えられていたら。
そんなことを願うばかりですね。

時代が変わっても、いつも愛がそこにありますように。
さ、明日も曲作るぞ〜。



これじゃだめ、此処じゃだめ、君じゃだめ、と色々捨ててきたけれど次は何を捨てるんですか。
これじゃなきゃ、此処じゃなきゃ、と思うものはあれからもずっと出来ません。君じゃなきゃ、というのは少しだけ、分かるような分からないような。

子供よりは子供じゃないし大人よりは大人じゃない、それでも時々赤ちゃんみたいになるそんなあの娘が大好きでした。
本名も暮らす町のことも知りません。
それでも、あなたはわたしの光です。
どうか小さな画面の中、小さな小さな退屈や憂鬱でわたしを照らしてください。
もしもあなたが笑顔だったならわたしはきっと耐えられません。
でも、それでも確かにあなたはわたしの光です。
あなたに苦しめられてこそ、わたしは生を感じます。馬鹿馬鹿しいけど笑わないでいて。
おやすみなさい。
そしてさようなら。








随分私的ですが、そんな曲を最近作りました。近々ドカンしたいです。キャハ

駅前を千鳥足で歩くサラリーマンを見て、公園のベンチで抱き合う男女を見て、河原で手持ち花火をする高校生を見て。流す涙はそれらに対しててではなく自分に向けられたものなんですよね。はー嫌だ嫌だ。


「私は人生複雑骨折 ドラマ型統合失調症…」なんて耳元で志磨遼平が歌い出すもんだから(イヤホンから)まあ涙が溢れてしまうよね。なんとなくこの涙はさっきまでとは違う気がする、なぜ。


もーダメなんすよわたし。日々の充実感と比例して虚しさが募っていく。何が食べたいのかとか小さなことから何がしたいのかなんて漠然としたことまでぜーーーんぶ分からんのです。選択ができない。いや、違うな。選択を避けている。これだ。

だって今まで「普通に考えたら間違った選択」ばかりをしてきたから今の生活があるんでしょ。わたし基準では何も間違ってないと思って信じていたのに間違っていた。大多数に否定される選択。そんなんもう選択なんて出来ないよね。なーにが「最後は必ず正義が勝つ」だよ志磨遼平の馬鹿野郎!正義を信じて行きてきた結果いつまで経っても負けっぱなしだよ。地元でも外でも勝ち知らずですよ。ひゃーー、悲しい!最初から何も始めなければ良かったのか!途中で関わる人を変えれば良かったのか!でもこの1年くらいの充実感や幸福感は今まで味わったことのないものだから出来るなら間違っていたなんて思いたくないじゃん?寂しいじゃん?大体「普通」って何なの。わたし基準の正義や正解じゃだめなの?普通じゃないんだから普通に考えるなよバーカ。って喝を入れてやりたいよ自分に。バーーーーーカ!


今はぐちゃぐちゃなな文章もなんとか綺麗にまとめられる日が来るような気がするよ。勘。音楽聴いて泣けるような綺麗な心があるならそれだけでなんとか大丈夫な気もするよ。勘。

「最後は必ず正義が勝つ」

それを地で信じてみたいよなあ。

 


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